森繁久弥が96歳で亡くなった。芸能マスコミは今日はこのニュース一色である。それはそうだろう。演劇界初の文化勲章受章者の死というニュースバリューだけではなく、これまで芸能人の葬儀で惜別の辞を述べる大役を数え切れないほど引き受けてくれた、芸能マスコミの大恩人である。その本人の死を大々的に報じなければそれこそ罰が当たるというものだ。
死去の翌日でもあり、森繁の業績を称揚する報道になるのは当然だし、またそうあるべきだろう。ただ数日もすれば、森繁の仕事や彼が後進に与えた影響に関する客観的な評論も出てくるに違いない。
私は終戦直後の東京喜劇のことは知らない。せいぜい色川武大のエッセイで知る程度だ。だから自分の言葉で書く材料もないのだが、「森繁久弥の影響で日本における”お笑い”の地位がなかなか上がらなかった」という説は興味深い。これは小林信彦が有名にした説だが、あるいはもっと以前から言われてきたことなのかもしれない。ニュースでは「日本最高の俳優逝く」とテロップが出されていたし、そういう解釈でもかまわないのだろうが、森繁はまずコメディアンとして名を上げたのだ。その後しだいにペーソスを盛り込んだ人情喜劇路線にシフトし、「屋根の上のバイオリン弾き」に至る。Wikipediaの
森繁久彌「人物エピソード」にはこうある。
・森繁の成功の影響でコメディアンの中からベテランになるにつれてシリアスな演技者となりたがる者が多発したため、作家の小林信彦は著書『日本の喜劇人』でそのような傾向の人々を「森繁病」と呼んだ。ただ小林は同書で森繁は元来シリアスな役者志望者であり、たまたまコメディアンとしての才能もあったため一時的にそのように注目されたのであってそのため彼の「転身」を他のコメディアンが単純に真似するのはおかしいとしている。
キャリアのスタートがたまたまコメディアンでのちに大物俳優になったため、コメディアンに「最初のステップ」という意味が生まれ、俳優に比べて一段低い地位になってしまったという説である。これを森繁個人の責任としてしまうのはちょっと無理があるし、むしろ安易な追随者の責任の方が大きいような気はする。逆にいえば、これだけの影響を与えるほど大きな成功をおさめた俳優ということだろう。
色川武大が阿佐田哲也名義で出したエッセイ集「無芸大食大睡眠」の中に、森繁についての言及がある。終戦後最初期の森繁久弥を実際に見て書き残した、今となっては貴重な記録だ。一部引用する。由利徹が新宿ムーランルージュで活躍していた頃の話。
森繁久弥はこの少し後に入って、たちまち売り出した。しかし私はムーラン時代の森繁を、人がいうほど評価しない。彼が演じたのは、新派、乃至は大劇場現代劇を要領よく小劇場風にアレンジしなおしたものに過ぎなかった。もっとも当時、それだけの才気は充分目立ったが。
私にとって、それよりも、ムーランに入る直前の(おそらく満州(現、中国東北部)から引揚げてきた森繁が、戦後はじめて東京の舞台に出たのではなかったか)、帝都座ショーのコント役者として登場したときのものが印象に残っている。
彼はここでは、役者でなく、あくまでタイプコメディアンだった。カーテン前の一景で、トイレ(大の方)がひとつしかなく、女性が恋文を持ったまま入ってしまってなかなか出てこない。やっと出てきたと思うと、寸前、猛然たる気配の女性が突進してきて彼を突き飛ばして入ってしまう。そういうことが重なって、ついにズボンの中に洩らしてしまう。
字にするとなんでもないコントであるが、ライトが消える寸前、ズボンの裾を押さえこむあたりの森繁に、なんともいえない滋味があって、いっぺんでこの名前を覚えた。ムーランで大向うを唸らせる芝居をした彼よりも、こちらの彼のほうが、今でも私はよっぽど好きである。
7年にわたって過ごした満州から命からがら引き揚げてきて最初に立った舞台である帝都座については、Wikipediaの経歴にも書かれていない。帝都座というのは日本ではじめてストリップ(当時は「額縁ショー」という、女性が半裸、時に上半身裸で名画を再現するという形式で、身動きもしないもの)を行なった劇場としてしか知られていないが、色川は「本来はなかなか高級なショー劇場であった」ことを活字に残しておきたいと、かなり詳しく書いている。そこでの森繁。
森繁久弥が帝都座ショーに出演していたのは、たしか二公演ほどだったと思う。そうしてヴァラエティとファルスの二本立という番組だったが、オーナーの丸木砂土(引用者註・秦豊吉)氏好みのグランギニョール風なものも時折りやった。
グランギニョールというのはパリの下町にある異端の小劇場で、偽悪的、扇情的な見世物芝居をやり、大戦前におおいに名を売った。怪奇劇も得意なレパートリーだった。今でいえばSM風グロ芝居で、決して上品なものではないが、グランギニョールと銘うたれると、なんとなくパリの香りがしてくる。
満州から引揚げてきたばかりの頃とおぼしき森繁久弥が、顔の半分くらいを痣でおおわれた怪人に扮していた姿が眼に残っているが、こういう記述を彼はあまり喜ばないかもしれない。森繁は二公演ほどでこの劇場から姿を消し、すぐ近所のムーランルージュに移って、ここで後年の成功のきっかけをつくった。
49年にムーランルージュ入団、翌50年退団、そして55年、42歳の時にターニングポイントが来る。
1955年、豊田四郎監督の『夫婦善哉』に淡島千景と共に主演。この映画での演技は、それまで数々の映画に出演して次第に確立していった久彌の名声を決定的なものにした。同年、久松静児監督の日活『警察日記』で田舎の人情警官を演じこれも代表作の一つとなる。これにより、単なるコメディアンから実力派俳優へと転進する。(Wikipedia)
ここから一気に社長シリーズ・駅前シリーズとヒット作を連発して、押しも押されぬ大物俳優となっていくわけだ。我々が公的記録として知る森繁はこのあたりからである。
さて、もう少し時代を近づけてみよう。森繁が切り拓いたコメディアンから俳優への道。多くの人がそこを歩いていったが、その中には森繁に匹敵する成功者もいる。彼もまた東京のストリップ劇場の幕間コメディアンからスタートし、国民栄誉賞を授与されるほどの大俳優となった。ある意味森繁久弥の正当な嫡子といえるだろう。「寅さん」と言った方が通りがいいかもしれない、渥美清だ。
浅草フランス座に所属していたこともある渥美は、1969年41歳の時に「男はつらいよ」第一作に出演。森繁のブレイク作「夫婦善哉」が42歳の時だから、このあたりに一つのチャンスがあるらしいことがわかる。
お笑い芸人年齢一覧表などを見て、いろいろ考えてみるのもおもしろい。小林信彦もそのあたりを意識して69年生まれのぐっさんの名を挙げているのだろう。それはともかく。
コメディアンから俳優へという道を拒否する芸人もいた。渥美清が売り出し中の頃には、売れるためにはともかくテレビに出なければいけないという風潮が強くなっていたが、「芸人はテレビになんか出ないものだ」というこだわりを持つ人もいた。渥美清と同時代に浅草フランス座で活躍していた深見千三郎などは、まさにその代表だろう。しかしこういった芸人たちが報われること少なく、名前もほとんど残っていないのは、やはり時代というものだろうか。深見は浅草六区の映画館に渥美が主演する映画の看板がかかると、その前を通らず遠回りをしたという。このエピソードを「売れなかった芸人のみじめさ」で片付けてしまうのは簡単なことだ。しかしその心中にあっただろう苦味も、今なら多少はわかる気もする。
ともあれ深見がもっとも可愛がった弟子、ビートたけしが森繁久弥について例の調子で「あの人いつも人の葬式に出てるけどさ、順番が違うだろ」と毒を吐いたり、たけしチルドレンである故ナンシー関が森繁をいじらずにはいられなかったのは、歴史的必然なのである。
と最後の部分を書きたかっただけなのに、長くなってしまった。これからは最後の段落だけをTwitterに書いて済ませようと思う。
posted by kaoruww at 19:19| 東京 ☔|
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