2009年08月29日

選挙前日

ケータイを持たないおじさんがいるだろう。なぜかこういうおじさんは「なぜ自分がケータイを持たないか」について、聞かれてもいないのに滔々と語りだす。いわく「こんなものに縛られたくない」、いわく「こんなものは非人間的だ」などなど。うむそうですか。でもなあ、残念だけど私はあなたのこと、ぜんぜん興味ないんだ。第一そんなこと質問したわけでもないのに、なにいきなり憑かれたように喋りまくってんの?なんか気持ち悪いんだけど。なにか負い目でも感じているのだろうか。

まああんまりそういう人とは関わりあいになりたくないものですね、というのが話の枕で、本題に入ろう。選挙の話である。はてなのホットエントリーで「なぜ自分は選挙に行かないか」という話題が盛り上がっていたらしい。開けてないから内容は知らない。だから内容についても触れない。思うのはただ「なに人から聞かれてもいないのにグダグダ言ってんの」ぐらいなものか。しょうもない長文書いてる時間で投票所行って帰ってこれるけど。ハタチを過ぎて中二病みたいな人間と関わるほどヒマでもないし。

この手の話でよく言われるのが「自分が投票してもなにも変わらない」ということ。これは裏を返せば「自分が投票することで変わるのなら行く」ということだ。こういうことを言う人の本音は「社会の方が自分に合わせるべき」ということだろう。結局のところ「世の中なんでも自分の思い通りになればいいのに。でもそうじゃないからスネてやる。行かない」だ。子どもか。けっこうなおっさんおばさんでもこういう幼児性丸出しのことをなぜか得意気に言ったりする。自ら権利を捨てているのだから、ほっとくだけであるが。

これらの人も一応知っておかなければならないのが、「棄権も投票行動のひとつで、結果に直接的な影響を与えている」ということ。機械的加算効果というもので、要は選挙結果の議席配分どおりに投票したのと同じことになる。例を挙げると、棄権者は民主に0.6票・自民に0.2票・公明に0.1票・社民と共産に0.05票、投票したことになる。繰り返すが数字は例である。よほど世間とかかわりを持たないぼんやりならともかく、ここに挙げた政党の中で「自分の票はたとえ0.01票でも絶対に入れたくない」というところがあるものだ。しかしそれでも「なんかめんどう」といった人が多いために、その怠惰と無関心を利用して、勢力を拡大しうまい汁を吸ってきた連中がいる。民主主義の落とし穴の一つだ。

「でも投票したい政党がない」とも彼らは言う。いい大人にオムツを替えるような言い方はしたくないが、この世に理想の政党や理想の政府なんてものがあると思っているのか。あるわけがない。現実はユートピアでないということを、そろそろ受け入れたらどうか。ベストな政党ではなくベターな政党を選ぶのが選挙だ。「ここしかない」などと目を三角にしている連中はヤバいだろう。「いろいろ問題はあるけど比較的マシ」と思えるところに投票する、ぐらいのスタンスが一番健全なのだ。政党なんて道具なのだから。包丁の切れ味が鈍ったら研ぎなおすなり、それでも無理なら捨てるなり、ともかく没入するような対象ではない。道具選びに失敗したら、また選びなおす。その繰り返しでしか、暮らしやすい国にしていく方法がない。「繰り返す余裕があるのか?」という疑問はたしかにある。でも、そう思うほかない。他に方法がないんだから。60年代みたいに暴力革命でも目指してみるか?投票所にすらめんどうで行きたくない連中が、機動隊にぶん殴られるようなことはもっとしないだろう。

選挙とは、制度化された革命といってもいい。平時における戦争といってもいい。そこまで大袈裟に言わなくても、政(まつりごと)の中で一番派手なお祭りだ。単純に「税金を払ってるのに参加しないのは損だ」ぐらいの感覚でセカンドベストを選べばいい。選挙特番だっておもしろく見られるしね。
posted by kaoruww at 23:59| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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